おれは一発一発の投資に力を入れなくなった。だが、まえの月に比べれば手数が飛躍的に増えている。多いときには一日で三十回以上の細かなスキャルピング取引を行う。全額をマーケットに置いたのは四回にすぎない。結果は二勝一敗一分け。最終的な収支のトータルは七万円近いプラスになった。

今度はあてるつもりなどなかったのに、利益が確定する。不思議だ。

タクマが七百万稼いだ、マーケットの月に一度のお祭り騒ぎ雇用統計を明日の夜に控えて、102.25円でおれはすべてのポジションを解消した。

 

 

カオルから話があるから会ってほしいと電話があったのは、雇用統計当日の朝だった。週末の昼下がり、府内町にある遊歩公園には南蛮文化の彫刻がいくつも建てられており、その彫刻を肩を並べて歩き、空いているベンチに腰を降ろす。両側に続くソメイヨシノの並木は、みずみずしい新葉をしげらせ、夏の陽射しにさえぎるように日傘のように立っていた。

おれは投資の練習がうまくいっていたこともあり、最高の気分だった。

「ねえ、ムネちゃんにとって私の存在ってなんなの?」

暗い声でカオルはそういった。

「私の存在って、おれはいつもと変わらないよ。カオルの事をいつまでも大切に思っている」

「嘘。まえまでは電話やメールを毎日してくれたのに、今はこちらから連絡をとらないとムネちゃんがなにをしているのかわからないし、連絡や返信がない日だってある。最近はわたしのことを後回しにしてる」

「そんなことないよ。それはたまに連絡が返せない時もあるけど、それは仕事で、返せないだけで、なんの意味もないよ」

「仕事って、タクマ君のお店のこと、それともFX?」

 

まえに会ったとき、カオルに定職についてほしいといわれた。だがおれはFXの可能性に、自分の将来の希望をみつけた。そのことを先週カオルには電話で話したのだ。

「私との未来を考えるっといって出した答えがFXだった。そんなギャンブルみたい職業で幸せになれるなんて私は思わない」

「じゃあ、カオルはおれがリクルートスーツを着て、毎日営業先で取引先に頭をさげてまわる職業が似合ってるというのか。先にいる年下の上司に文句をいわれながら」

「ムネちゃんがどんな職業につくかは知らないけど、社会人はみんな最初はそれから始めるものなの。中途採用だとさらに条件の厳しいところもある」

「そんなのが嫌だから自分の道を見つけようとしてるんじゃないか」

「それはムネちゃんのわがままだよ」

 

おれは勢いで鞘から抜いた刀を納められないでいた。組織には序列があり、あたりまえの上下関係がある。カオルの一般論は正論であり、おれの言葉はすべて世間知らずのガキの戯言なのだ。でもそんなことはわかっている。感情的になると引き返せない言葉のやりとりもある。それが彼女ならなおさらだった。

「じゃあ、どうすればいいんだ」

「わたしはこんな台詞、くだらないテレビドラマだけかと思っていた。でもいうよ。わたしを取るか、いまのふらふらした人生を取るかはっきりしてほしいの」

おれは慌てて横に座るカオルを見た。真剣な目をしている。以前から考え抜いた言葉のようだった。

 

「さあ、どうする」

制覇の視界2-8おれは迷った。タクマとは古い付き合いだ。おれが定職につくといえばタクマならひきとめることもしないだろう。だが、始めたばかりのマーケットからはおれは離れらない。カオルはおれの目に映るとまどいを読んだようだった。ちいさく息をのみ、驚きの表情を浮かべる。ショートカットの黒髪が新緑を背につややかに光っている。その瞬間、彼女はとてもきれいに見えた。昭和の時代なら夜の店の用心棒といえばそれなりのハクがついた。でもそれは暴力的な解決であり、とてもじゃないが人に威張れる職業でもない。時には酒に酔った客が刃物持ち出し、危険をともなうこともあれば集団で襲われることもあった。致命傷的な攻撃を受けることはなかったが、それでも怪我をして家に帰ることはあった。そんな時、いつも手当をしてくれたのはカオルだった。最低だとののしられようが、気にもかけずにおれを信じて、いつもそばにいてくれたのは、カオルだけだった。

「考えられない。わたしのことを真剣に考えてくれているという言葉は・・・・・・嘘だったのね。見損なったわ。さよなら」

 

糸で吊り上げられるようにベンチから跳ねると、遊歩道をふりむかずに歩いていった。おれは新緑の木に消える彼女の硬い背中を見送った。

胸に穴が開いて、風が抜ける。だが、どうしようもなかった。始まりは終わりでもあり、終わりは始まりでもあるのだ。今を手に入れるには過去を捨てなければならない時もある。

 

 

マーケットに絶大な影響力を持つ重大な指標が月に一度ある。全世界のトレーダーたちが、この日だけはすべての予定をキャンセルして、その動向に固唾を飲んで息を潜めている。全世界の掲示板はその成り行きを予想し、奮起し、お祭り騒ぎのようになる。それもそのはず、その波に参加するものは「live or die」、つまり生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされる。そしてその波はチャンスでもあり、ピンチでもある。

発表まえはとても静かなチャートが発表とともに激しく相場が急変し、一瞬で一円以上動くこともある雇用統計は、前月比の非農業部門、民間部門雇用者数、失業率のアメリカが発表するこの三つの指標を総合して雇用統計という。雇用はどこの国も景気に直結する指標であり、雇用統計が悪ければ景気が悪い、雇用統計が良ければ景気がよいという判断基準であるため、運がよければアップダウンの読みだけでそれなりの利益が確定することもある。為替をよく知らない素人にとっては一攫千金のチャンスともいえる。だが、単純なチャンスほど、それ相応のピンチの穴がある。波の起伏は一つだけとは限らないもので、ぐんぐんと勢いよく上に伸びる波もあれば、一回上に跳ねたあと、下にぐんぐんさがる波もある。さらには上下に大きく動いたあと元の位置まで戻り、トレンド通りに動くことだってある。いくら雇用統計の結果がよくても、必ずしも買いトレンドが発生するとは限らず、蓋を開けてみなければわからない。それが雇用統計の真の怖さだったりする。その怖さを知らない素人ほど、最初は適当な勘で勝つこともあるのだ。

マーケットは他の仕事とまったく変わらない。危険は常に存在する。だがそのリスクをコントロールしていくことで着実に前進する。それはおれがこの一ヶ月雇用統計について調べた考えだった。

おれは雇用統計に挑む戦略を準備していた。それは過去の雇用統計の波を見ていて気づいたことだった。雇用統計の場合、相場が動いてからはいるのは、遅い。そして危険なのだ。さらには雇用統計前にポジションをもったとしても、大きく枚数はもたない。買う場所と利確と損切りを同時に設定できるIFD注文で仕掛けること。そうすることでマーケットが大きく動くとき、こちらの想定内でポジションを操作できる。成り行き注文だと、マーケットの波に操られるだけだ。

雇用統計の発表は二十二時三十分。おれは夕方からチャート画面に張りついていた。ロンドン市場とニューヨーク市場が参入しても大きな動きはなく、さざなみのようなチャートの波だった。2チャンネルの掲示板では雇用統計の個人予想で盛り上がっている。そのすべての予想になんの根拠もない。

発表三十分前になると、チャートの波が慌しくなってきた。ドル円は上下の波を作りながら徐々に上方に動いていく。

おれは初めての雇用統計参加に不思議な期待と恐怖を感じていた。

 

発表十五分前、現在のドル円は102.30。おれは102.50でIFO注文をいれた。利確は102.80、損切りは102.10。五万通過のポジション。

雇用統計の期待値が高まっているのかドル円は発表前にどんどん上昇していく。おれのIFO注文は五分前に始動した。そこでおれはさらに102.60で五万通過のIFO注文をいれた。利確は102.90。損切りは102.30。

 

二十二時三十分。アメリカの雇用統計の発表が行なわれた。為替に何の変化も起こらない。画面がフリーズしたかのように波が止まった。慌しく動いていた通貨もぴたりと変動をやめ、停止した数字が画面に表示されている。

不思議な感覚だった。その時間はまるで数十秒足らずだったが、何時間にも感じた。止まっていた針が動き出した時、おれの十万通貨のポジションはすべて決済されていた。雇用統計の発表は改善されていて、急激に動いたドル円は103.15だった。さらに上昇は続いている。一瞬の出来事だった。

このまま上昇を続ける。ふと安易な考えが頭をよぎる。さらに追加のポジションをもとうと考えた。この波は大きい、そう簡単に終わるはずはない。今持てるだけのポジションをもつことが最善の手だとおもった。落ちている銭を拾わないのは馬鹿だ。悪魔のささやきにおれは耳を傾けていた。ドル円は103.35。迷っている暇はない、そう思っておれはマウスに手を伸ばしかけた時、スマホが鳴った。着信音に目を向けると、表示された名前はカオルだった。

熱くなった頭がスマホに表示されたカオルの名前で我に戻った。おれはチャートの波から目を離し、スマホを手にした。

「こんな遅くにごめんね。今ムネちゃんの家に前にいる。いま部屋にいるならこれから部屋に行ってもいい? どうしても今日中に謝りたいことがあるの」

 

今日の午前中に別れたばかりの彼女からの着信。内容は謝罪。よりを戻したいのだろうか。だが、別れを切りだしたカオルの表情には覚悟を決めたものがあった。

「わかった。おれは家にいるよ。そのまま上がってきてくれ」

「ありがとう。ごめんね、突然」

「大丈夫」

 

電話を切って、チャート画面に目を戻した。ドル円は103.10円。形成されたチャートを見てみると、103.41円で天井となり、そこから急激な下方修正となっていた。

つい欲がでて絶対に上がると確信した。でも事実はその確信とは違う方向に動いた。おれはカオルの声がなければマーケットの波に踊らされるところだった。
玄関のチャイムが鳴った。ドアを空けるとカオルがTシャツにジーンズとラフな格好で立っていた。おれはカオルを部屋に招きいれた。

「カオル、どうしたんだ。なにかあったのか?」

カオルは小刻みに動く通貨のフラッシュを見ながらいう。

「これがムネちゃんのやっているFX。今日もやってたんだ」

「今日は大きくマーケットが動く重大な指標があったから」

「どうだったの?」

「少し儲けた。でも危なかった。カオルの着信がなかったら、今日は大損してた」

「ふーん、そうなんだ」

 

それから会話は続かなかった。それもそのはず。別れた理由は現状の生活にあるのだから。沈黙に耐え切れずおれはいう。

「ところでどうしたんだ、今日は?」

カオルがおれの目を見つめる。その視線はなにか問いかけるようだった。

「わたしムネちゃんに酷いことしたのかなってずっとあれから考えていた。わたしムネちゃんにわがままっていったけど、それはわたしもそうだよね。勝手に私の幸せばかりムネちゃんに押しつけて、自由を奪っている」

 

午前中の会話はカオルが正論なのだ。感情的になって取り乱したのはおれのほうだった。口約束でも幸せにすると、おれはいった。その言葉を信じて待っていてくれたカオルが、いまのおれの生活をみて不安になるのはしょうがないことだった。

「いや、そんなことはないけど、おれももうちょっとカオルのことを考えていればよかった」

「わたしは今でもムネちゃんが好きなの。ムネちゃんと一緒じゃなくなるなんて考えられなかった。でもそんな気もちだけで一緒にいることなんてできないし、お互いの為にもならない。わたしにはわたしの人生があるし、ムネちゃんにもムネちゃんの人生がある。お互いの人生にどっちかが邪魔になるような存在になるのなら、これからは一緒にいないほうがいいのかなって思った」

カオルの言い分は正論だった。おれもその通りだと思う。人生とは選択の連続であり、その選択を一緒に選んでいく相手こそが最良の相手なのだ。だが時にはその正論が頭ではわかっているのに、逆の行動をしてしまうことだってあるのだ。

 

「ムネちゃん、わたしのこと今でも好き?」

おれはその問いかけに即答だった。

「好きだよ」

「わたしのこと邪魔じゃない?」

「邪魔じゃない」

「わたしのことこれからも・・・・・・」

 

制覇の視界2-9おれは次の言葉をさえぎるようにカオルにキスをした。カオルはそのキスを受けいれるように目を閉じる。しばらく二人の口がつながって、時間がとまった。
おれはつながった口を離す。カオルはゆっくりと目をあけると、にっこりと微笑む。

「今日はごめんね、突然あんなこといって」

「いいよ、おれもちゃんとカオルの事は考える」

「うん、ありがとう。これは仲直りのキスだね」

「そうだね」

「なんだかここにくるまでわたし不安だったの。もしムネちゃんが本当にわたしのそばからいなくなったら、どうしようどうしようって、そればかり考えていた」

 

ふふふとおれは笑った。なんだか照れてしまう。

「ねえ、ムネちゃん、もう仕事終わったんなら、久しぶりにこれから飲もうよ。今日泊まっていってもいい?」

「もちろん、いいよ」

それからおれはマーケットの話を忘れ、でたらめなバカ話ばかり。腹の皮をよじって笑いながら二人の思い出話をした。最近の二人の会話はどことなくぎこちなかった。でも今日はいいきっかけでもあった。初めて二人で飲んだ夜みたいにお互いがドキドキする感覚。このあと二人はどうなるんだろうとお互いがその先を常に考えている。何杯目かのおかわりをするとき、カオルとおれの手と手がふれた。久しぶりの感情で頭ではなく、体が自然と動いた。衝撃で全身熱くなり指先まで心臓のどきどきが届いて、気がつくとおれたちはキスをしていた。どちらが先にしかけたわけじゃない。
キスはふたりの真んなかでした。