この喫茶店はいつの時間帯が混雑しているのだろうか。昼過ぎでも席は三割ほどしかうまっていなかった。無口なマスターだが、自家焙煎のコーヒーの味は悪くない。お昼時のフードメニューとしてもトーストやナポリタン、ホットドック、それにいくつかの定食も用意されている。客層は会社員が多い。打ち合わせ用だろうか。通いなれた体でマスターにアイスコーヒーを二つ頼んだ。返事はなく、さきほどと同じように微笑む程度の笑顔をみせるだけである。

向かいの席に座った男の名前は、荒川良治。年齢は三十二歳。都市銀行に勤める会社員。緊張からなのか外の暑さのせいなのかわからないが、脇のしたの汗じみがなんとなく不快感。外回りが多いのかやけに日焼けしている。荒川は早くこの場から立ち去りたいのだろう厚みのある合成皮革の鞄を両ひざに抱えて、おどおどと腰を浮かせていた。荒川は引きつるような笑顔を見せた。

「あの、FXについてということですが、私はなにを教えたらいいのでしょうか? わたしなんてFXを語れるほど常勝なんてしていませんし」

「話は頼んだアイスコーヒーが届いてからだ。喉が渇いた。とりあえず鞄をしたに置いたらどうだ」

荒川は壁の時計に目をやった。十四時十五分。興味のなくなった合コンの女みたいな小細工を使う。こっちはFXの知識はまるでないのだ。適当に話を合わせられてさようならでは意味がない。そこは念を押しとかないといけない。

「別にあんたを長時間拘束しようなんて思わない。おれはただ、あんたがいうおれのダチのまぬけの理由がわかればそれでいいんだ。でももしあんたの説明に納得できなければ今日はここに閉店までおれと一緒にいることになる。それが困るならしっかりと答えるだけでいい」

その言葉を聞いて荒川は観念したようだった。膝にかかえた鞄を足元におろした。

 

制覇の視界1-5マスターがアイスコーヒーを届けると、荒川はすぐに手をつけ、半分ほど一気にのみほした。ストローに空気がはいり、間の抜けた音が平日午後の喫茶店に響く。おれも一口飲んでから話を進めた。

「まずはおれも自己紹介しておく。名前は本間宗久。歳は二十六。仕事は夜の店のトラブルの用心棒ってとこかな。銀行員のあんたにはおれは底辺の種類かもしれないな」

「いえ、そんなことは」

荒川は言葉ではそういうが目がそう語っていなかった。光がないのだ。気持ちは十分わかる。おれの卒業した大学では大手都市銀行に受かるなど、よほどのコネがあるか、最優秀の学生のひとにぎりだった。高給取りで仕事も安定している。世間の評価も高い。タクマのいう世間体というものを荒川はもっているのだ。

「おれのダチの名前はタクマという。あんたも知っての通りタクマはFXで七百万を稼いだ。その方法は一か八かの賭けにでたようなものだとおれは思っていて、タクマはその一か八かの賭けに成功したとおれは感じた。でもあんたはそんなふうにおもっていない。その理由を、おれは知りたい」

「マーケットに一か八かは通じません。世の中には需要と供給があるようにマーケットにもそれは存在します。FXもそうです。買いたい人と売りたい人の綱引きでその時の相場は決まります。特に今のマーケットは負けにくい相場とも言われていますが、それでもプロの投資銀行や機関投資家たちが市場から震えて逃げ出しています」

 

荒川は先ほどまでのおびえた表情ではなくなっていた。黒いビー玉のような目に光がともったようだった。

「私は職業柄、数多くの投資家たちを見てきました。株価や為替、金利のマーケットの相手は世界です。そのなかでも一流と呼ばれるディラーやバンカーとも仕事をしてきました。そして彼らに共通していえることは絶対的な自信がないと動かないということです。彼らが動くときは道ができています。それを後押しするのが個人の勘とセンスです。彼らは細かな分割投資をくり返し、まるで彫刻の制作を思わせるような動きを見せます。あそこを削り、こちらをつけ足し、離れて見て、再び全体のバランスを再構築します」

荒川の湿度を感じさせない声は真剣そのものだった。どんな世界にも天才といわれるプロフェッショナルは存在する。そしてプロフェッショナルはいつの時代も臆病なものなのだ。

「本間さん、わたしたちが生きている世界では、圧倒的にだますよりだまされるほうが悪いのです。そのためにも自分を守るための知識は絶対にもっておかなければいけません。見た目の言葉に惑わされたあなたの友達が付け焼刃の知識でこの世界で通用すると思いますか?」

おれがやつに目をやると、荒川も見つめ返してきた。出会ってから初めての熱が、やつの切れ長の目に宿っていた。

「そうだな。おれも少しは格闘技をかじっている。世界王者と対戦して勝てるとも思わない。タクマはたまたまラッキーパンチが当たっただけなのだろう」

「そうですね。その格闘技の話に例えるなら、FXというマーケットの世界は、毎日世界王者との対戦です。今日の結果は勝ちでも。明日の結果は、明日の取引が終わるまでわかりません。そして一か月、半年、一年と勝率をみてみると、もう後戻りのできない悲惨の結果が待っているのが、このFXの世界です。現にこういう統計がでています。新規にFXに参入するものが一年後残っている割合は、一割です。残りの九割の者はマーケットの世界から退場するか、この世からいなくなるかです」

 

ため息をつきそうになる。タクマのいる世界はこの世でもっとも恐ろしい激戦区なのだ。おれはきく。今の経済仕組みを知るには、どのくらいまで過去にさかのぼって歴史を学ぶ必要があるのか。荒川はむずかしい顔でこめかみに指をあてる。

「経済について学び、知識を増やすことと、実際の投資活動はまったく異なるものです。そこを勘違いしてはいけません。先ほど本間さんは格闘技を習っていると言ってましたが、体のすべての部位を知り尽くしている医者は、どこの機能を傷つければ人は倒れるのかを知っているかもしれません。でも、どれほど体の構造や人の進化の歴史を学んだところで、それだけではプロの格闘家にはなれません。実際に実戦し、失敗と成功を重ねながら、格闘術を身につけていくしかないのです。才能の問題もあります。しかし・・・・・・」

そこまで話すと、急に顔をほころばせた。

「技術だけでは、ひとつひとつの攻撃に深みと重みが生まれないのも事実です。本間さんのように核心をつく疑問がすぐにでてくることはマーケットで生き残るには必要な要素です。わたしは今の経済状況を理解するには、バブルの膨張と崩壊についての省察が欠かせないとおもいます。勉強したいというなら、資産価格のバブル化が始まった1980年代後半を調べてみるといいと思います」

荒川が銀行員だからなのかそれとも営業職で培ったノウハウが確立されているのかはわかないが、荒川は天性の教師なのかもしれない。基本的な説明とそれを聞いたものに向学心を抱かる話術をもっている。自頭がいいのだろう。大学時代の先生たちに、爪のあかでものませたいくらいだ。

「一応聞いておきたいんだが、タクマがFXの世界で生き残る確率は、あんたからみてどのくらいだと思う?」

荒川は悪びれずにいう。

「0パーセントです」

「その根拠は?」

「タクマさんは絶対にやってはいけない手法で取引をしているからです」

言葉に確信的な強さを感じる。荒川は残りのアイスコーヒーを飲みほしてから続きを話しだした。

 

「100か0の勝負を続けていれば必ずいつか0になります。それならいいのですが、FXの場合は100か0の勝負ではなく、100かマイナス100の勝負です。それがわかっていないからタクマさんは危険なのです」

タクマの話だとFXは両替だときいた。その取引は為替変動を見越して売買をし、為替差益を狙っていくものだと思っていたが、両替をする手持ちがないのになぜマイナスになるのだろうか。すでに話についていけなくなってしまっている。この話はおれではなく、タクマに聞かせたほうがいいのではないだろうか。ふとそんなことを思った。

「なあ、ここにタクマも呼んでいいかな? あんたの話はおれにはどうも難しいようだ」

「多分、それはあまり意味がありません。タクマさんは今自信過剰なっていると思います。私の話がどんなに正論でも聞き耳をもたないでしょうね。では、もっと簡単に説明します」

 

そういうと荒川は鞄からノートとペンを取り出して、縦線図を書いた。縦軸と横軸に数字を記入していく。

「FXにはレバレッジとロスカットというシステムがあります。まずはレバレッジですが、日本は二十五倍までと規制があります。もう少し砕いて説明すると、レバレッジは賭博でいう倍率です。百円を賭けたら最大二千五百円の儲けが得られるということです」

荒川は縦線図にその図式を書いていく。

「このレバレッジをつかってFXは取引をしていきます。例えば百万円でレバレッジを、ここではわかりやすいように百倍とします。資金百万円ならば百倍の一億円分のドルを買えます。この時に一ドル百円だったとすれば百万ドルのドルを購入したことになります。この状態だと為替レートが一銭動くだけで十万円の利益と損失が揺れ動きます。FXでは専門用語で一銭とは呼ばず一ロットや一ピップスなどと呼びます」

荒川は細かく図式を書き込んでいく。

「取引はレバレッジを使ってますから一億ドルですが、手持ちは百万円です。これも専門用語で証拠金と言います。この取引では一ロット動くと十万円の損益が発生します。十ロットマイナスに動いた場合、百万円のマイナスとなります。証拠金がゼロになればポジションを持つことができませんからこれで取引は終了となります。でももし、急に相場が動いた場合、十ロットしか値幅の余裕がないのに百ロットの動きがあった場合、一千万の損失になります。この事態がFXにはあるのです。すこし簡単に説明しましたが、これがレバレッジの原理です」

荒川の書いた縦線グラフに波線が追加される。波の中央に棒線を引き上下に点をつける。百万円の証拠金が底割れしたときに発生する損にこまかく金額をいれていき、具体的なリスクをわかるように図にしていく。

「本間さん、為替マーケットは縄跳び遊びに似ています。おおきく回転する縄をよく見て、自分なりのタイミングで輪のなかに飛び込んでいきます。自分の体や足の動きはわかっているので、波の上下のリズムもつかんでいます。きれいに足元をさらう縄をとんで、するりとマーケットから退場する。うまくいかないときもあります。イチローだってボンフライをお手玉することもあります。投資は野球と同じで、最初からミスが織り込み済のゲームです。ミスは次の攻撃で挽回すればいいのです」

 

制覇の視界1-6おれはただ荒川の説明を聞くばかりだった。今話しているのは単純な基礎と基本の部分なのだろう。おれは少しずつだが為替という場所がどんなところなのかわかってきた。

「本間さん、次はロスカットについてお話します。ですがこれもレバレッジと同じように単純に説明します。今の本間さんにレバレッジの時価評価総額に対する必要証拠金の割合を話してもわからないと思いますので、そういう説明はすべて省いています。私の説明は単純な仕組みを教えているだけだと思ってください」

「わかった。まだ細かいルールがあるんだな」

「はい。その細かいルールは頭でわかるより、実際にやってみて理解したほうが呑み込みが早いと思います。ではロスカットですが、FXにはレバレッジを高くかけることができるう反面、損失もかなり大きくなる可能性があります。その場合、証拠金が全額なくなってしまうばかりか、不足金が発生してしまう可能性があるため、それらのリスクを避けるためにロスカットというシステムを各FX会社は用意しています。要は証拠金以上の損失を出さないためにFX会社が自動的にポジションを決済します。でも勘違いしないでほしいのは、このロスカットは投資家を守るためのものではなく、自分の会社を守るためのシステムだと思ってください。損を出した投資家から実際にマイナス分を回収するのはFX会社なのですから」

証拠金以上の損失を出さない為のシステムがあるのなら、多額の借金をかかえる事態になることはないのではないのだろうか。矛盾がでてきた。おれがそれを口にしようとしたら、荒川が先にいう。

「為替マーケットは全世界で二十四時間取引が行われています。ですが、日本では基本土曜日曜は取引ができません。ポジションをもったまま週をまたいでしまうとそのあいだに急激な相場の上げ下げがあった場合、ロスカットは適応できず、週明けに多額のマイナスをかかえていたりすることもあります。ほかにもロスカットが間に合わずにマイナスをかかえるということもあります。だいたいのFX会社はロスカット比率を証拠金維持率の三十パーセントにしています」

証拠金維持率という言葉がでてきた。FXにはおれの知らないルールと用語がまだまだあるのだ。おそらく荒川は計算でいう足し算と引き算レベルの話をしているのだろう。小学生レベル。まあそっちのほうがわかりやすくていい。全体の流れがわかる説明がおれにはは知りたかったのだから。

 

「荒川さん、ありがとう。FXについてのだいたいの仕組みはわかった。タクマがとってる行動もどれほど危険なことかも理解できた。最後にひとつだけ聞きたい」

いきなり名前で呼ばれて荒川は驚いたようだった。あらたまっていう最後の質問に、荒川も動揺していた。最初に出会った時のように荒川は不安の目になる。

「な、なんでしょうか?」

「FXで生き残るやつって、どんな奴なのかな?」

荒川の顔に安堵の表情が窺えた。荒川にとって不利な質問が来るのかと思っただろう。

「その答えを、私は今も探しています。でも同じ質問をされて毎回答えているセリフがあります。でもこれは私のセリフではなく、私に為替マーケットを教えてくれた人の言葉です。その人は今も現役です。彼は私にこう言いました。世の中にはいろいろな手法があります。ファンダメンタルを理解し、それにテクニカル分析を合わせて取引を行っていったり、トレンドフォローに乗り、ディトレやスキャルピングで相場にあわせた取引を行う人、ポリジャーバンドでエントリーを判断する人。でも結局のところ、そういう手法はただのきっかけにすぎません。一見無秩序な数字の変化に過ぎないデジタルの揺れのなかから、波動の上げ下げと潮の満ち引きを感覚的に抽出する。その値動き感覚を身につけないと秒単位で変化していく世界経済に飲み込まれていくだけです。他の株式でも商品相場でも、投資信託などでも、値が動くものならまったく変わりません。すべての経済活動が数字におき換えられ、市場化していく今の時代には欠かせない感覚です」

 

そこまでいうと荒川はにやりと唇の端をあげた。

「私にそのことを教えてくれた人はあなたよりも間違いなく歳は若いんです」

おれは我慢できずにきいてしまう。

「そいつはいくつなんだ?」

「中学二年生の十四歳です」