五十代か六十代ぐらいのマスターがオレンジジュースと特製ナポリタンをテーブルに置いた。微笑むくらいの愛想を見せて、またカウンターに戻っていく。この喫茶店は三十年以上やっているらしく、壁はたばこの煙によって茶色く変色しているが、耳に心地よいBGMとコーヒー独特の香ばしい香り、間接照明の優しい明かりはアンティークな雰囲気を出している。古い週刊誌や漫画本、小説が書棚に置かれているが巻数はランダムに並べられていた。

タクマはおしぼりで手を拭き、いただきますと手を合わせ、目の前のナポリタンを食べはじめた。

「うん、うまい。この気取ってない味、教科書みたいなナポリタンっすね。トマトケチャップがちゃんと隅々まで行きわたってるし、麺に芯がまったく残ってないのもいいっす。最近はアルデンテだなんだと芯をもてはやしてるのが流行ってるみたいっすけど、やっぱナポリタンはこうでなくちゃ。マスター、今日のナポリタンもバッチグーっすよ」

タクマはそういって、マスターに親指をたてた。マスターはまた微笑むだけだった。そういえばあのマスターは客がはいってきてもいらっしゃいませもいわない。おれの注文を聞くときも頷くだけだった。まあ、今はそんなことはどうでもいい。七百万の続きが気になる。タクマの感想の一口が終わった。

「そんなことより、その、エフ、エックスってなんだ?」

「ムネさん、FXしらないんっすか?」

「だから、聞いてる」

「えっと、どっから話せばいいかな」

 

タクマは腕を組み考える表情になる。分かりやすい態度だった。それはタクマの癖ともいえる。その癖がよく出るのはタクマが料理をするときだった。タクマの実家はフレンチのレストランを経営している。おれの格闘技と同じでタクマはちいさい頃から親父の料理をたたきこまれていた。将来は親父の店を受け継ぐつもりだった。だが、不運が襲ったのは調理師学校を卒業してまもなくだった。親父の経営するレストランで見習いとして働いていた時、突然発作を起こし呼吸困難におちいった。

病院で検査を受けた結果、肺気胸と診断された。手術をすれば治る見込みのある病気だったが、この病気のやっかいなところは再発の可能性が高いことにあった。突然の胸の痛み、突然の息切れ。それはいつ起きるかわからない突発性のもので、料理人にとっては致命的な病気のひとつだった。再発率は自然治癒の場合50%、内視鏡手術の場合10%、開胸手術の場合3%だった。そしてタクマは開胸手術を選択した。だが、再発は起こった。

 

若い時の夢はあきらめが早かった。圧倒的な人生経験不足はタクマに次の道を後押ししたのだ。だが、あきらめきれなかった夢は意外な時に役に立つことがある。料理の道を諦めてサラリーマンをしていたタクマが会社の同僚とたまたま行った今の店のオーナーに料理の腕を買われた。

伸び悩むクラブ経営に次の一手として、フレンチ料理を出せる夜のクラブとして戦略をたてた。水商売といわれる所以は水を薄めて利益率をコントロールできることにある。ドリンク類のなかでも儲かるのはお酒。そのお酒をすすませる料理を考えるのがタクマの仕事だった。おれも何度かタクマの料理を食べたことがある。その時は四角皿に貝殻のようにちいさく巻いたパスタだった。腹にたまらないように二口、三口の少量でだすのがポイントらしい。見た目もよく、しっかりとうまかった。

 

タクマが腕組をといた。頭の中で整理ができたようだ。

制覇の視界1-3「簡単にいうと両替っす。日本のお金の通貨は円、アメリカはドル。例えば海外旅行に行って、買い物をしようとしても日本円では買い物ができないっす。日本円をその国の通貨に両替して買い物をするんですが、それと同じ仕組みでFXは外国為替証拠金取引といって、日本円を外国のお金に両替することっす」

タクマはいったん言葉を切り、オレンジジュースを飲んだ。口のなかを潤して続きをしゃべりだした。

「国の通貨にはレートがあるっす。それを為替レートといって、築地市場のセリやネットオークションとおんなじように、買いたい人が多いと価格は上がり、売りたい人が多いと価格は下がるっす。実際の話、日本からの海外旅行者が急増するゴールデンウィークやお盆、年末年始なんかは何十万人という人がお金を両替するので、円を売ってドルを買う圧力が働いて、ドル円の為替レートもドル高円安となるっす。それを見越してドルを安い時に買っておいて高くなったら売るというのがFXっす」

安く買って高く売る。それは商売の基本だった。それがお金に変換しただけで、基本原理は変わらない。タクマの理路整然にまとめた内容に、おれはなるほどと頷くだけだった。タクマはナポリタンを食べ始めた。フォークにくるくると麺を巻いて一口サイズで食べる。小柄だが体格は良くて頭はスキンヘッド。見た目は悪いが食べ方はどこかのお嬢様みたいだ。

「FXの仕組みはわかった。それでどうやって七百万も儲けたんだ?」

 

タクマはちょっとまってくださいといい、残りのナポリタンを片付けた。オレンジジュースで流し込んでから、空き皿を横のテーブルに移動させ、パソコンを開く。いくつか操作して、今度は二人が見えるように画面を向けた。

「ムネさん、これがドル円チャートです」

ジグザグを描きながら、だらだらと続く右肩さがりの曲線だった。

「それから、次はこっち」

そういうと画面をチャートから、数字がびっしりと並んだ表に切りかえた。つぎつぎとウィンドウを開き、三枚の表をずらして重ねる。

「これはここ三か月のドル円の終値を表示した場帳っす。この終値を点と点で結び折れ線グラフに表したのが・・・・・・」

タクマは次にエクセルの折れ線グラフを表示した。月の初めに盛り上がったジグザグは、月末にかけてゆっくりとあがっていく。三か月も似たような曲線を描いていた。タクマは波の三つの頂点を結び一本の線を引くと、つぎに波の底を結んだ。ゆるやかな右肩あがりの二本の平行線のあいだに、ほぼ値動きの上下動は収まっている。

「今年はアベノミクス相場と言われていて、トレンドが円安にむかってるっす。このように二本の平行線の間でもちあいの状態になって上昇していく事をボックス相場というんすっけど、ここの所見てもらえます」

タクマはそういって月初めの盛り上がった箇所を指さす。

「世界には経済指標という経済に関連する統計の発表が毎月あるんすけど、その中でも米国の雇用統計は他の経済指標のなかでも注目度が高いっす。毎月第一金曜日の夜にその発表があるんすけど、今回はそこの急激な相場を狙って儲けたんすよ」

 

 

タクマの説明を一通り聞いて、七百万円のからくりがわかった。

月に一度ある値動きが激しい経済指標に目星をつけ、タクマはその日の雇用統計の結果でドル高円安になると予想し、朝からドル円のポジションを持った。なんの根拠かはわからないが、雇用統計が発表される日は朝からドル高にむかうという。そして発表の夜、タクマの丁半ばくちの予想は当たりドル高にチャートは振れた。

 

タクマの話を聞いて、不思議に思った。このからくりはギャンブルに近い。七百万儲けるということは七百万損をする可能性がある。タクマは意外と慎重派でありなにをするにしても計画性が高い。金の管理も徹底している。だから今の店の金庫番も任されている。おれは素直にきいてみた。

「チャートが上にいくか下にいくかなんて、わからなかっただろ。もし予想が外れていたらどうするつもりだったんだ」

タクマはおれの目を見つめる。タクマの目のなかで、遠い炎のような光が揺れていた。興奮しているのだろう。

「ムネさん、おれは来年で三十歳になるっす。もう結婚して子供がいてもおかしくない年齢なのに、いまだにふらふらして、人生に迷ってるっす。今の店のオーナーにはよくしてもらってますが、おれの人生このままでいいのかなってずっと思ってるっす。でもなにをやるにも金は必要だし、もしそんな金があってもなにをしていいかわかんないし、こんまま人生終わっていくのかなって思ってて・・・・・・」

 

そういってタクマはパソコン画面のチャートに目をむけた。

「でも世界は数字で動いてるんだなって、このチャートをみて知って、この世界にはあらゆる富が動いてて、誰にでも大金をつかむチャンスが転がっているっす。おれもこの歳になって、それなりの経験は積んできたつもりっす。大きなチャンスをつかむにはそれなりのリスクはつきものだって知ってます。だから最初の取引が失敗に終わってたら、ムネさんにこの話はするつもりはなかったっす。すぐに手を引こうと考えてましたから」

タクマは、おれに目を据えておおきく笑った。なぜか背中にひやりと寒けが走る。

「でも最初の取引は成功して七百万円がおれの手元に転がり込んできたっす。持っているポジションを決済して、利益が確定したときは全身の血が沸き上がるようないままで味わったことのないほど興奮したっす。おれはもうこの世界にぞっぷりはまってしまったす」

 

人生の目標を失って、次になにをしたらいいのかわからない。世の中にはそんな若いやつらがくさるほどいる。まわりがそんなやつらばかりだからこのまま平凡でつまらない人生で終わってしまう事になんの不安ももたなくなる。でも自分だけはほかのやつらとは違うと信じているから時にはどんなに危ない橋だろうが、きっかけをつくるチャンスが転がり込んできたら、渡ろうとする。そして運よく渡りきってしまうと、予想外のおもしろさにもう後戻りはできなくなる。

タクマの話におれはただ頷くだけだった。FXの世界がどれだけ危険な場所なのかおれには想像もできないけど、タクマは最初の橋を渡りきったのだ。

「おれはその世界のことはよくわからないけど、タクマが次の道をみつけたんなら、それはいいことじゃないか。がんばれよ」

おれはそういってタクマに右手を差しだした。タクマはその手をしっかりと握った。意外なことに、その手はびっしょりと濡れていた。

 

 

タクマは店の開店準備があるからと先に喫茶店をでた。おれはこのあとはなにもすることがなかったので、喫茶店にいることにした。

タクマがのめりこんでいるFXにおれも興味を持ちはじめていた。それにタクマの、おれの人生はこのまま終わるのかなとつぶやいた一言が耳に残っている。一発当てるという公営的なギャンブルといえば競艇、競輪、競馬が思い浮かぶ。最低賭け金は百円。七百万を稼ぐには七万倍のオッズの投票券を購入しなければならない。そんなオッズに金をかけるのはほとんど金を捨てるのと変わらない。だが、タクマが手に入れた七百万は上がるか下がるかの二分一だったという。短い期間で七百万を稼ぐことができる世界がFX。そんな世界があるのだと知ってしまったら、誰でも興味は沸くものだ。

FXについて少し調べてみるかと思った。書店にいけばなんらかの参考書ぐらいはあるだろう。どうせこのあともなにもすることはないのだから。

 

制覇の視界1-4喫茶店を出て、近くの書店に向かう途中、話し声が耳に入った。ジャングル公園のベンチに座っている背広を着たサラーリマン風の男。スマホを耳にあて誰かと電話をしている。

 

「さっき、喫茶店にいたんだが、アホみたいな会話をしている連中がいたんだよ。FXで七百万儲けたから、人生をFXにかけてみるってさ」

サラリーマン風の男はなんだか楽しそうに話している。

「しかもその手法を聞いたらさ、ほんと笑っちまう。雇用統計で一点順張り。たまたまその時の雇用統計は上がったみたいで、運よく儲けたみたいだけど、雇用統計が上がるか下がるかとかで博打みたいなポジションの持ち方してたら、そいつ地獄みるよな」

そこまでいってさらに笑い声がおおきくなった。

「多分最近の話してたから三日前の雇用統計だろうな。あの時は最大で二円近くの動きがあった。七百万といったら、二千万通貨以上のポジションをもたないといけないから、レバレッジを最大の二十五倍までしたとしても必要証拠金は五百万くらいかな。そんな金持ってる風にみえなかったから、海外口座で取引してんのかもしれないな。あっちはレバレッジ千倍とかもあるしな。でも馬鹿な話だよ。そいつもすぐにマーケットの養分だよ。それからホームで電車に飛び込みのどっちかだよ」

 

「おい」

タクマのことを言ってるのだとわかった。おれは気がついたらサラリーマン風の男の胸倉をつかんでいた。

「おれのまえでおれのダチの悪口いってんじゃねえよ」

つかんだ引手に力をいれた。やつは耳元にスマホをあてて、おびえた顔をしている。電話の向こうで、どうしたぁ~と間抜けな声が聞こえていた。

「おまえもFXやってんのか?」

「は、はい」

やつの声は震えていた。顔は童顔だが短髪の頭はうっすらと薄くなっている。二十代とも見れるが三十代にもみえる。威勢がいいのは電話だけで、心底怯えているのは目を見てわかった。

「FX歴はどのくらいだ?」

「五年くらいです」

「それなりの経験はあるってことだな。よし、おまえ、おれにFXのことを教えろ。そこの喫茶店にいくぞ。おれのダチの悪口言った罰だ」

やつは困った顔でいう。

「いや、これから仕事が・・・・・・」

引手にさらに力をいれた。お互いの顔の距離は約三センチ。

「おれの申し出を断れば、その仕事が数か月はできなくしてやるぞ」

「す、すいません。なんでもいうことを聞きますから、暴力だけは」

おれは引手を離した。

「最初からそういえばいいんだよ、いくぞ」

おれは出てきたばかりの喫茶店にまた戻った。

 

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