おれがこの夏に迷い込んだのは、マーケットという名前のジャングルだった。すべての参加者がオオカミでも、カモでもある世界。自己責任と市場主義が、目のまえで踊るグラフの波の相場を決めていく。その波には膨大な知識や何十年という経験値をあざ笑う魔物が住んでいて、一瞬の判断ミスでそいつを奈落の底に突き落とす。

お国の方針で法律が改正された1998年以降、その波には欲にまみれた参入者が殺到した。それ以前はその道のプロだけが参加できる世界で、プロたちが毎日必死に闘い、それでも多くのプロが損失を抱えて去っていかざるをえなかった世界である。数が歌い、グラフが踊るのだ。縦一列に並んだ数字から、とろとろとうねる波の上げ下げと、おおきな潮目の変化を感じとることができなければ生半可の知識の参入者など、一瞬でマーケットの養分となる。

この狂った時代、どんなに逃げたってマーケットの影からでることは、もう不可能なのだ。市場の傘は世界を覆っている。庶民の振りも、善良である振りも、無知である振りもすぐに通用しなくなるだろう。市場は参加者の性格など問わない。この世界は一流大学をでて一流企業に就職し、エリートだといわれる選良が生き残る世界ではなく、社会不適合者だろうが、殺人者だろうが、世間のゴミといわれようが、生き残った奴が凄いと称賛されるのだ。

 

この世界にいるとたまに運よく大金が転がんでくることがある。それを実力だと勘違いする奴もいるが、そんな奴は数か月もしないうちに自分がピエロだと気づく。今日百万円手にいれても明日には三百万円失っている世界なのだ。

別にこれは極端な例なのではなく、当たり前の事実。この世界に平均点などもないし、横並びのありふれた人生も用意されていない。中がない上下の生活があるだけなのだ。

 

おれが今から語る話は、巷にあふれている「簡単に儲かる」とか「絶対に間違いない実践法」などという適当なキャッチコピーをつけた書籍や統計をもとに過去についてだけもっともらしく解説する学者たちの経済分析とはまるで違う。おれの人生を大きく変えた相場師とすごした数か月の日常の話だ。その日常がおもしろいかつまらないかなんてわからない。でもおれにとっては人生が変わるほど刺激的だった日々だ。

これからこの世界に飛び込んで来ようとするつもりなら、まずはおれの話を聞いてみるといい。どうするかはあんたの自由だし、おれも責任は持たない。この世界はすべてが自己責任において自由なのだから。

さて、そろそろ取引を開始しよう。おれの話は能天気な春があっさりと金の座席をゆずった暑い初夏から始まる。

 

 

制覇の視界1-1「ムネさーん、そいつ、五分以内に倒したら、今日の日当倍でもいいっすよ」

頭をつるつるに剃りあげた馴染みの斎藤拓真がいった。仕事柄毎晩酒を飲んでいるせいで酒焼けしたざらざらの声。おれはニヤリと笑っていう。

「アホ。こんな奴、一分もかかるか。それより、昼めしどこにするか決めとけよ。にしても暑いな、今日は」

おれとタクマのやりとりをきいて目の前の作業着を着た巨漢の男が物理的な圧力をもった視線で睨んでくる。なめてんのか、こいつと目が言っている。おれはいう。

「おまえ、この暑いのに、長袖の作業着きて、暑くないの?」

あきらかに歳下であるおれに、おまえと呼ばれ我慢できなくなったみたいだった。顔を真っ赤にして電柱のような腕を広げて突進してきた。つかまえてしまえば、圧倒的な力と体重でどうにでもなる。そう思っているようだ。おれは瞬時に頭の中でいくつかの攻撃パターンを考えた。簡単な挑発に乗り、頭に血が上っている奴は、おれをつかまえることに必死だ。つかまえた後は、そのあと考えて次の攻撃にうつる、選択肢がひとつの単細胞のパターンだ。やつの突進力を利用してカウンターの右を鼻面に打ち込むか、それとも左腕をつかんでそのまま遠心力でコンクリートの地面に投げ倒すか、ほかにもいくつかの攻撃パターンが浮かんだ。そのなかからひとつを選択した。

おれはぎりぎりまで動かずに、距離を詰めさせた。巨漢の指先がかかる直前、左にフェイントをいれてから右にサイドステップ。おれはちいさく息をはいた。

「シッ」

巨漢は方向転換ができなかった。無防備のあごの先端に右手を走らせる。押しだすスピードより引きもどすスピードを意識したジャブストレートである。巨漢は糸の切れた人形みたいにすとんとその場に落ち正座した格好になった。意識はない。

「ジャスト十秒。新記録っすよ、ムネさん」

スマホを片手にタクマがにやにやして近づいてくる。タクマはスマホアプリのタイムウォッチで対戦相手との時間を計測し、カレンダーにうちこんでいるらしい。おれは肩をすくめた。

「今回は相手が弱すぎただけ。建設現場で働いてれば誰だって体格はよくなるだろうし、力もついてくる。でも相手を倒そうとするなら、行き当たりばったりの攻撃しか知らないようじゃ、相手は倒せない」

「ふーん、そんなもんすかね。こいつなんて見るからに力強そうだし、殴られたら、おれなんてひとたまりもないと思いますけどね」

タクマはおれより、頭ふたつぶん背が低い。身長は百六十センチ前半だろう。小柄でも小柄なりの戦術というものがある。タクマはそれを知らないだけなのだ。

「喧嘩に身長差なんて関係ない。シミュレーションをいくつ知っているかとそれをこなせる場数がものをいう」

「あっ、また始まった。ムネさんの格闘技指南。今日は勘弁してくださいよ、その話。ムネさんの場合、その話が始まると、実践でみせてやるとかいって、練習相手にさせられるんだから。このまえのムネさんの左回し蹴りで受けた左腕がいまだに痛むんですから」

「いや、あれは鍛えてやろうと思って」

「ムネさん呼んだらだいたいのトラブルは解決するんだから、おれが強くなる必要なんてないっすよ。ムネさんは加減知らないんすから。そんなことより、飯いきましょうよ」

「ああ、そうだな。こいつはここで寝かせといていいの? それにこいつは誰?」

正座して意識を失った巨漢に目をやった。

「うちの常連で藤本っていうんすけど、最近うちのキャストにストーカーまがいの行為働いてるんすよ。店から何度か注意はしてるんすけど、全く効果なしで。それでこの前おれが藤本のお気に入りのキャストといちゃついてたの目撃したらしく、いきなり、ジャングル公園に呼び出されたわけっす。それで急遽ムネさんにきてもらってお灸をすえてもらったみたいな感じっす」

ひとりの淋しさに耐え、仕事先の人間関係の理不尽さに耐え、じりじりと若さが削られる日々に耐え、いつか現れるだろうと思っている誰かを待っている。だが、そんなとき、出会いのきっかけはどうであれ、目の前に素敵な女性があらわれる。彼女はとても紳士的に心の鎧を脱がすような笑顔で近づいてくる。その時、この人こそ、待ち望んでいた発見者だと思う。いつも乱用していたノーという言葉が、正常な判断力とともに消えていく。疑似恋愛を本物の愛と勘違いして自分の女だとおもってしまう。夜の街ではよくある話だった。

「高い金払って酒飲んでるのに、色恋に発展するわけないだろう。こいつが金持ちなら話は別だが、小銭しか持たない男が若い女にもてはやされているだけとか気づかないもんかな。いい歳した大人が。目の前でなにが起こってもそれを客観的に判断する能力が欠けてんだよ、こいつは」

「そうっすね。とりあえず飯行きましょうよ。なんでもごちそうしますよ」

「ああ、そうしよう。腹がへった。なんでもというなら、南蛮亭にしよう。久しぶりに豊後牛が食べたくなった」

「了解っす」

 

夏の盛りにはまだ早い。それでも今年の夏は始まりから暑さが増していた。人の気配に敏感な野良猫も日陰でぐったりとしていて、食事にむかうおれたちを遠目で見ていた。

恋は盲目だという。おれはまだそんな恋愛をしたことがなかったから、その意味がわからなかった。そのことを体験するのは数週間後だった。おれも藤本のように正座をして意識を失う事態になる。でもおれの場合は人に恋をするのでなく、相場に恋をしてしまう。夢中になり、目の前で失われていくさまざま状況に判断力が欠如して、盲目になっていく。運がよかったのは取り返しがつかなくなるまえに、ある人が手を差し伸べてくれたのだ。

 

おれは今年で二十六歳になる。いちおう文科系の大学を卒業した。そこの偏差値は良くも悪くもなく、卒業までの成績は優がふたつ。うちの大学では男子が三割、女子は五割強が卒業しても職がなく、就職浪人をしている。おれは昭和生まれの世代だが、この日本にはバブル期があったという。おれの時代にそんな景気のいい話など聞いたことがないのだが。

ただ卒業できたというぐうたら学生に色よい返事をくれる企業など、いくつ試験を受けてもあるはずがなかった。それに、おれ自身どこかの会社に潜りこみ、社会人になるという選択に意心地の悪さを感じていた。

ちいさい頃からおれは親父の教育で、柔道に空手、それにボクシングを習わされていた。親父の夢は息子を格闘家に育てることだと毎晩きかされていたが、その夢に付き合うほど出来のいい息子ではなかった。親の教育方針に従ったのは高校を卒業するまで。武両道も必要だということで大学に通うはめになったが、大学からは反抗期を貫き通した。大学を卒業しても定職に就かず、それを見かねた親父と大喧嘩になり家を飛びだした。

転々とアルバイトを繰り返しながら、毎日を適当に過ごしていても生活は成り立つもので、世の中を斜めに見ながら、毎日をそうやってしのいでいた。人に誇れることじゃない。夢も希望もない。金も仕事もない。誰かのためにも、世の中のためにも役立ちたくない。群れから離れたやせオオカミにでもなった気で、ねじれたプライドにぶらさがってるだけ。きちんと就職した同世代の仲間から取り残されて、いよいよきつくなる下り坂をひりひりと足の裏で感じながら、それでも自分は特別なんだと心のどこかで信じていた。オオカミどころか丸々と太ったいいカモだ。

 

 

タクマと知り合ったのはバイト先の同僚の女の子のちょっとしたトラブルからだった。タクマの働くクラブにその子はかけもちをしていて、店の客がバイト先に訪ねてきてしつこくつきまといだしたのが事の発端だった。用もないのに店内に居座り、彼女をずっと監視するようにみている。バイトが終わるころを見計らって、彼女のあとをつきまとうストーカー行為をくり返していた。それをきいたタクマが店にやってきて恫喝したが、やつは今度は数人のガラの悪い連中と店にくるようになった。

夜の商売にトラブルはつきものというが数で攻められたらタクマの威厳は通じなかった。タクマの店もこんな時のために組へのみかじめ料を払っていたが、ガキの喧嘩にやくざをだせるかとオーナーに厳しく言われ、あとにひけなくなった。その時仲裁にはいったのがおれだった。親父から英才教育を受けさせられた格闘技がこんなところで役にたった。四対一の殴り合いの喧嘩になったが、相手は素人だったこともあり、おれは汗ひとつかかずにその場を制圧した。それからタクマは荒事があるたびにおれを呼ぶようになった。もちろんそれなりの手当を渡されるようになり、それでバイトも辞めた。

タクマから連絡があったのは藤本の件から一週間後の猛暑日にはすこし足りない七月の午後だった。タクマの店は都町にある。それで用心棒のおれがすぐに出動できるようにとタクマがワンルームのマンションを用意してくれた。

都町は大分市の歓楽街。食の定番店はひととおりそろっていて、夜の遊び場もソープランド以外が所狭しとしのぎを削っている。都町のほぼ中央には、ジャングル公園があり、昔は飲食時の待ち合わせ場所や休憩場所として利用する人は多かったみたいだが、今は違う。ジャングル公園の周りは雑居ビルで囲まれ、多数の樹木が植えられている。その木木が鬱蒼と茂っているため、公園内の見通しが悪い。

ある奴はジャングル公園をナンパコロシアムという。週末にはベンチに女たちが座り、男たちはぐるぐると円をえがきながら順番に声をかけていく。話がまとまれば公園をでていく。飲み屋も、カラオケも、ラブホテルも、すぐとなりだ。またある奴はなんでも売り買いができるマーケット広場だという。角にある公衆便所に売人が五分置きにはいり、男女関係なく男便所に消えていく。

おれはなにもすることがない時はジャングル公園でそんなやつらを眺めては時間をつぶしている。だからタクマから連絡があった時もジャングル公園のベンチに座って、なにか起こるのを待っていた。

タクマが待ち合わせ場所に指定したのはジャングル公園の目のまえにある純喫茶だった。この喫茶店はタクマが店の女の子の相談を受ける時によく使っている。おれがこの喫茶店呼び出されたのは初めてだった。おれは荒事専門だから女の子の悩みなど聞いても何の解決案もだせるはずがない。女の子がタクマに持ってきたトラブル先に出向いて制裁を加える。だからおれが相談の場に居合わせる必要などない。今回はなんのトラブルだろうかと考えていると、紫ガラスのドアを押し開けて、タクマが店にはいってきた。

 

制覇の視界1-2「ムネさん、お待たせっす。マスター、おれ、いつもの」

そういって目のまえのだいぶすり減った年季のはいったソファに座った。

「どうしたんだ、今日は。こんなとこに呼び出して」

おれがそういうとタクマは持っていたカバンからノートパソコンをとりだした。

「ムネさんに見てもらいたいものがあるんっすけど、ちょっと待ってくださいね」

 

タクマはノートパソコンを開き、いくかの操作をした。キーボードをたたいてから、画面をこちらにむけた。画面上部に日経平均チャートと記され、いくつかの数字がランダムに表示され、波線グラフが表示されている。

「これがどうしたんだ?」

タクマはいたずらっぽい笑顔をつくってからいう。

「実はね、ムネさん。おれ、FXで七百万稼いじゃったっす」

 

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